Vol.2
96年の選手で今残っているのが、レンタルの吉原を含め2人しかいないという事実は
強化・育成の根幹の問題であると私は強く反省している。96年は5位という不本意な
成績で終わってしまった。
97年はバルデス、マラドーナを加え、当時のJFLでは突出したチーム力を作った
と思っている。結果、97年の決算を見ると・・、お金は必要条件だと思っている。だか
らといってあれば勝てるというものでもないが、だから97年はブっチ切りで優勝を飾る
ことができた。
98年はいい戦いをしたが、フロントにしてみれば経済的問題もJに上がればなんとか
なる、という思惑が、つまり、入場料収入が増えるはずだ、グッズが売れるはずだ、Jの
配分金もこれだけ上がるはずだ、というものがほとんど外れた。その時初めて、会社設立
以来Jに上がれば、というお題目のような考え方が、98年に実際Jに上がってみたら
全てそういうことではないと分かった。決算を見てもJFLの97年と変わらなかった。
そこで始めて我々はある種の幻想ではなくて、このチームの身の丈というものが分かった。
それを3年もかかったのか、4年もかかったのかとお叱りを受けることを覚悟で申し上げ
ている。Jリーグのチームを持つことの実態が分かったのが98年だった。
99年に関してはチームの人件費も落とし、できるだけその範囲の中でやる方法を考え
ることに切り替えた。次に指導者をどうするかという問題があった。フロントとして岡田
氏を監督に招聘した。日本代表監督であったが、フランスでは1勝もできなかった、と言
われるかもしれない。人を選ぶこと、人を決めることに関していろんな意見があることも
十分承知しているが、これはフロントとして岡田氏とチームの根幹を作ろうということで
招聘したのが実態だ。そのチームの根幹を作るとは、東芝サッカー部の移転というところ
から始まる形だけのスタートだったものを、5年目を迎える中で将来につながるチーム
作りに着手したと考えていただいてけっこうかと思う。
その年その年の結果を追い求めるあまり、無駄とは言わないが、結果的に無駄なお金を
使ったことになるかもしれない、それはもちろんフロントの責任になるが、昇格をするの
は目標ではあるが、その前にクラブでできる範囲、シビアなやり方を十分吟味した上で
行くことに切り替えた。
去年のことは誠に申し訳なかったが、監督・選手は頑張ったけどフロントを含めクラブ
の総合的な力が足りなかったと私は理解している。
(Vol.3に続く)