「クラブ」のお話は全くその通りだと思います。
でも、日本には、そういう土壌がない。なければ、多少なりとも強引でも、「きっかけ」
は必要なんだと思います。
例えば、「Jリーグ百年構想」にしても、「クラブ」という発想の全く無かった所に
「クラブを作るため」に「プロサッカーリーグ」を始めたという説明になっています。
これは、本来の世界でのサッカーの成り立ちを考えれば、全く話は逆ですよね。
サッカーを好きな人が、それこそ「日常としてボールを追い掛ける光景」から「クラブ」
ができ、やがて幾つかのクラブが互いに集まって「リーグ」ができたという事を考えれば。
だから、J反対派は、「もともとそんな思想の無い所に欧州式クラブの思想をもって
きて成功するわけがない」という。
でも、本当に草の根のおっしゃったような光景から、クラブを作っていったら何百年
かかるかわからない。
逆に言えば、Jができて、バブルとはいえムーブメントが起きた事で、「クラブ」と
いう思想が日本に根付き始めた、とも言えます。
その辺りは「日本特有の上意下達式」で駄目な事なのかもしれませんが、必要悪と
言えない事もないと思います。
上では書き忘れましたが、このグラウンドがもともとは「泥捨て場」と呼ばれた何の
役にもたたない「町所有の空き地」であった事を考えれば、実業団の為だけでも、ま
してコンサの為だけでもない、「栗山のためのグラウンド」を作ったという事は、そ
の事自体が評価されるべきかもしれません。あくまでも、作った事がゴールなのでは
なく、それが「きっかけ」になるのであれば、ですが。
(コンサートホールなどに比べれば、「きっかけ」としての可能性は高いものと思います)
しかしながら、おっしゃる事はよく分かります。
清水がサッカーの街になったきっかけは、一人の先生の熱意がサッカーをする子供達
を増やした事ですしね。それに比べれば、まずグラウンドありき、というのは不純か
もしれまんね、確かに。
でも、「芝のグラウンド」ができて、それを使ってサッカーやラグビーをする日常が
結果的にできるのならば、それは悪く無い事なのではないでしょうか。
ここは多分、意見の合わない所だと思います。
(論点は「公金を使って」「どうなるか分からないものを作る」事なのでしょうね。
普通に考えれば「芝のグラウンド」は作ったこと自体が「公共の福祉」に充分値
する事なのですが、どうしても無条件でそうとはならない風潮は否定できませんし)
芝のグラウンドが実を結ぶか、枯れるか、それこそは栗山の民意によって歴史が結果
を出す事でしょう。栗山町民が、これをきっかけにして「スポーツの日常」を作るか、
或いは上意下達にノーと言うのか。
今の所は、できたグラウンドが単なる一時的な刺激だけには留まっていないようです。
念のために言えば「スポーツそのものが町興しにならない」ということは全く賛成です。
(町興しって言葉自体大嫌いですし)
♯これだけ書いて来たけれど「できたものを使う」という発想は駄目、って来られたら
♯負けるのは分かってますから。
♯ま、「コンサのために使えないグラウンドを作ったのではない」という事だけなんで
♯で、ここで本来言いたかったのは。