選手が気の抜けたプレーをしていれば、サポーターからはブーイングが起こります。
何故か?
彼がサッカー選手というプロであり、それによりお金を得ている、その対価としてもとめら
れるプレーの最低限のレベルと誰もが思う、局面を切り開こうとする意思を表示しないからです。その動作に、求められる意志が見出せないからです。それゆえに、愛する選手に対するブーイングという状況が許容されるのです。
ある選手が気の抜けたプレーをしたが、その選手を責めるのではなく、チームにその憤りをぶつけるべきだ。これは著しくおかしなことです。
何故か?
“公”と“私”についての考え方に誤りがあるからです。
問題の店員さんは、接客を行うことにより収入を得ています。つまり、社会の中で、公的な位置を、その人は販売員という職によって占めているのです。ユニフォームを着て店頭に立つ限り、その人は社会的には“私人”ではなく“公人”として生きていることになるのです。
言いかえれば、販売員とはお客さんと接する、という点においてプロだ、ということです。
そして、プロだからこそ、お金がもらえるのです。
気の抜けたプレーをした選手がブーイングを受けて当然なように、お客さんに不快感を与える応対をした販売員は、サービスにおいて、批判を受けて当然の行為をしているのです。
ホスピタリティに欠けることは、サービスを売る人間にとってあってはならないことであり、批判を受けて当然のことなのです。真摯さを欠いた応対は批判に値するのです。
問題とすべきは、私人、あるいは個人であるか、公人であるかの違いであるのです。
個人か、所属する組織か、という問題の立て方には、私はまったくなじみがありません。それゆえ、妙な考え方に思えてしまいます。
また個人を特定して、といいますが、たまごさんはその方の名前をあげつらったわけではありません。それにつながる悪意も、私にはまったく読み取れません。
たまごさんの文章は、個人攻撃の文章では“全く”ありません。問題を提起して、もしくは同意を求めているに過ぎません。
ショップの販売員として、という前提を一歩も踏み越えていません。立場にふさわしい言動を求めているだけのことです。
それにより個人の、つまり、“私人”としての販売員の生活に支障をもたらす恐れは私には全く感じられません。
なぜ、たまごさんの文がいけないのか、私には全く理解できません。
ちなみに人間の言動は文字通り、言葉と動作、あるいはしぐさの両方を指す言葉です。
言うまでもなく、人間は言葉のみで感情を表しているわけではありません。
なぜ言動の“言”だけを問題にすべきなのか、“動”は問題にしてはならないのか、考え方に違和感を感じずに入られません。
なお、個人的な主観による判断は、客観的正しさが常に伴うとは限らない、これは社会生活を普通に送るものにとって、あまりにも分かりきったことです。