--私信にすべきかどうか大いに悩みましたが、掲示板を利用する多くの方々に、どこかお役に立つことがあるかもしれないと思い、投稿いたします---
: 拡大解釈だと思います。
: この内容を読む限り、どんな非常識な内容の投稿であっても寛容な心で
: 限り無く受容するべきであるかのように読めます。
おそらく誰にとっても大変難しいのです。加えて、そのような精神の実現がほとんど無理らしく思えてしまう機会は、誰の人生を選びません。この点で、わたしたちは平等でありましょうし、また、同じくらい脆弱で、差のない無力感を引き受けざるをえないでしょう。
しかし、この不可避性を前にして、しばしばある種の錯覚が引き起こされることを、私はまたはっきり指摘しておかなければならないと思います。要するに、こうした不可避性がもたらす無理難題を補うために自分には自由裁量が許されるはずだ、という錯覚です。しかし、この帰結は、どうあっても結びつきようがない帰結といえます。
また、快・不快は、個人に固有な問題であって、全体に決して還元されえない問題であることもあわせて指摘したいと思います。ざっくばらんにいえば、ひひだ氏は主にこの点でファールを誘っているのです。そして、果敢な何人かは、すでに飛び込んでしまいました。要するに、不快だから、改めよ、立ち去れ、とは、逆向きに提示するレッド・カードのようなもので、(しいていえば管理人さん以外の)誰であっても、結果はそのまま自身に折り返されるのです。
おそらく、さとっと氏は、この果敢な何人かに比べて、用心深さに大きく勝っていると思われます。というのも、さとっと氏に対してネチケットは外的な基準であるかのようです。もちろん、ネチケットが倫理以上(以下)のなにものでもないことや、不文律であることを差し引いても、なお余る常識にその論拠がゆだねられます。これは一見して何か正しいことを保証しているようです。
何か。私が思うに、ここに保証されているのは、さとっと氏が、常識や制度を尊重する優れた精神の持ち主であること、そして、むしろ賞賛されるべき存在であることに疑う余地がない、ということです。これは簡単にいえば適応と順応の精神であって、人間的価値に対する信頼やこの信頼から生じる人間の自発性とあわせて、わたしたちがネチケットを考える際に欠かせない一方の軸にほかなりません。しかし、それでもやはり、私はここで三つ目の指摘をしないわけにはいかないのです。
三つ目の指摘はこれまででもっとも単純です。それは、さとっと氏が根拠とするところは、外的ではあるがさとっと氏自身に直接与えられている、ということです。しかし、結局のところ、自身に備わった常識に照らしてなお外れることが世界にはあったとしても、そうしたことはなんら驚くべきものではないようにやはり私には思われるのです。
もっとも、今回に限っていえば、見解の分岐は、ひひだ氏の感情表現に接したことで生じた最初の感情の相違、つまり、少なくとも私にとってはそれが不快感を誘うものではなかった、という相違にあったのではないかとも実は思っています。私は幸運なことに困難に至らなかった、ただそれだけのことかとも思います。
たとえば、さとっと氏が危惧される「暴言」についても、私には危惧する以前に存在しないのです。かといって、私はひひだ氏の言論の自由を擁護する気が毛頭ないこともはっきり述べておきましょう。つまり、私にとって、ひひだ氏の感情表現は、挙げていけばきりがない欠点と過剰な熱意が素朴きわまりない一つの正論を中心に回る、せいぜいアマチュア・パンク・バンドのそれと同程度のものだということです。しかし、程度がどうあっても、その中心に吐き出された一つの正論を無視してよい理由にはなりますまい。北極星氏の言葉を借りると、それは「コールリーダーに従わないサポ」という問題定義にほかなりません。さとっと氏が困惑されているポジティブな議題の基準についても、私は端的にこういいきることができます。それは、コンサドーレ札幌に対して是か非か、ただその一点につきるということです。
さて、思うにそろそろ別スレッドを立ててもいい時期に来ているのではないでしょうか。別スレッドのタイトルは「コールリーダーに従わないサポ」です。