: : : ただ100%対120%の戦いをただ観たいのならそれは普通のファン、相手の気勢をそぐサポーティングをするのがサポーターじゃないですか?
: : それは「定義」として決まっている事ではないと思いますね。
: : そうでない「サポーター」がいる事を非とするに足る論理は如何に。
:
: 定義なんて僕は言ってませんよ。
言ってませんね。でも上記の表現はakiさんの理想像ですよね。
だったら定義とnearly equalではないですか。
: でもそういう意見はここでだけ通用する論理だと思いますね。
だからそれのどこが悪いんですか。
:僕の言う事が理解できないのであれば、各地の降格争いのチームの試合とか、この間の南米予選でのモルンビーとかそういう場所で聞いて見なさいよ。
理解していますよ。
それは正しいんですよ、「そういう場所」では。
その正しさは私も知る所ですが、では逆にお伺いしたい。
それは、絶対普遍にして唯一無二の正しさなのですか。
そういう事をしているのは、そこに至るまでの歴史的経緯と文化的背景があると
言う事をお分かりになられないakiさんではないと思うのですが。
以前のコンサートホールに関する議論を伺った限りでは。
それだけのものがないところで、ただいたずらにそういう行為を許容するのは、
物事の是非の分別のつかないガキ共にサポートもへったくれも関係無くただ暴れ回る
場を与えるに過ぎない事を何故理解されようとしないのか。
それと、もうひとつ付け加えましょう。
元F1ドライバーの中嶋悟氏は、彼が雇ったドライバーには絶対に公道で交通法規
を犯さない事を厳命しています。
その事によって、社会全体がモータースポーツを社会の害悪として迫害される
事を知っているからです。
もちろんそれは、社会の側にモータースポーツへの偏見があるのが理由です。
英国ではセナやマンセルが速度違反で捕まった事はあっても、その事によってモー
タースポーツが迫害される事はありません。
今の日本で、akiさんが許容されるような事は、「サッカー文化とはそういうもの」
という理解よりも、「サッカー文化は社会の敵であり排斥すべき」という論調を
形成する事になるでしょう。